活動の記録

戯れ言

黒衣の余白

2019-02-07

はい!

ブログ書いてますよ。大丈夫です!!

どうせ半年くらい音沙汰ないだろ、と思っていたでしょう?

ふっふっふっ…今年は違うから。

一体、私は何と戦っているのでしょうか…。

 

どうでもいい話なのですが、先日、親知らずを抜きました。

歯医者さんに行くのが怖くてこわくて、素知らぬふりをしていたのですが

行ってみたら、あの心配は何だったんだというくらい簡単に

ものの三秒ぐらいでポロッと抜いていただきました。

上顎で、なおかつ歯が退化傾向にあったから楽だったみたいなのですが

あまりの早業にびっくりしました。

ただ、問題はその後で、抜いたところにぽっかり穴が空いていて

これが仕事中も何か気になってしまうんですよねぇ。

 

さて、あまりに衝撃的な出来事過ぎて

いきなり本当にどうでもいいことを垂れ流してしまいましたが

今回もまた、戯れ言シリーズを書かせていただければと思います。

というか、ネタがないのでしばらくは戯れ言が続いていくと思われます。

有益な情報じゃなくて、すみません…。

 

テーマは「余白」。

きっと、暗室初体験の方は、店内に転がっているプリントを見て

ちょっとした違和感を覚える方が多いと思います。

暗室でプリントをする際は、通常下の画像のように少し余白をつけて

印画紙内に画像をプリントするのが、いわば通例のようになっています。

毎度、画像がしょぼくて申し訳ないのですが…。

 

IMG_1830

 

しかし、普通(?)の方は「写真プリント=お店の2L判」という

いわゆるフチなし(紙全部が画像)プリントのイメージがあるので

なんで、わざわざ余白をつけているのだろうと不思議に思われるそうです。

というか、私も初めそう思いました。

 

一応、余白をつけるのには理由がありまして

私が知っている限りでは大きく

①撮影フォーマット(35mm, 6×6, 6×7etc)の画像をしっかり使いきるため

②経年劣化やキズから画像を守るための保険

というのがあるかと思います。

 

①がどういうことかと言いますと

撮影フォーマットによって画像の比率というのは変化します。

35mm判なら一般的に2:3ですし、6×6や6×7ならば

それがそのまま画像の比率になります。

しかし、印画紙は撮影フォーマットごとの比率に合わせて作られているわけではなく

別の規格でサイズごとに比率が決まっていますので

「印画紙の比率=撮影フォーマットの比率」とはなっていないのです。

例えば、8×10インチの印画紙(比率:2:2.5)に35mmのフォーマット(比率:2:3)を

フチなしでプリントしようとすると、画像の方が横長なので

どうしても左右が切れてしまうことになります。

 

IMG_1822

 

これはもったいない!

というか、そもそも自分が思っていた画角にならない!!

その為、撮影フォーマットの比率を活かしてプリントをしようとすると

印画紙の内側に画像を収めることになるので、自然と余白がつくようになります。

 

IMG_1824

 

 

②は、正直、私も確証があるわけではないですし

保存環境に寄るところが非常に大きいかとは思うのですが

印画紙が経年劣化する際は、紙の端からじわじわと変色が始まることが多いようで

それゆえ、画像部を変色から守る為の保険として

少し余白をつけておく、という意味あいもあるようです。

また、シミ(知ってます?)などの虫食いから画像を守る為や

画像に傷がつく可能性を低くする考えもあったのかな、とも思います。

紙の端っこは齧りやすいし、擦れやすいですからね。

 

他にも細々した理屈は考えられるのですが

概ね、余白をつけるのは①の理由からだと思います。

しかーし!私はここに第三の理由があるのでは、と考えます。

 

ずばり「かっこいいから」

 

…失笑ですか?(;_;)

いやいや、結構マジで言ってます。

 

仮に、同じ写真を同じサイズの紙にプリントするのでも

画像のサイズ(余白の量)によって観る側の印象は、だいぶ異なるように私は感じています。

 

IMG_1829   IMG_1828

 

ざっくり言えば、余白を多くとるとオシャンティ(お洒落)になる気がします(笑)

これはなぜなのかなぁ、とずっと考えていました。

毎回、自分で話しておいて明確な、お答えができないのですが

多分それは、余白が持つ「何かと何かを繋ぐ」機能に起因した現象なのだと思います。

 

ここから先は、本当に個人の主観や好みによるところが大きいので

話半分で読んでいただけると嬉しいです。

 

紙のギリギリまで画像をプリントした場合は

大きい分だけ細かな情報を読み取れるようになりますし

とても迫力があって、圧倒されるものがあります。

ただ私には、時にそれがとても息苦しく

ドンっと作品に言いたい事だけを言われて

突き放されているように感じられることがあるのです。

これはフレームに入れた時に、余白が少ないと顕著なのですが

写真がせせこましく、枠の中で「オレだ!オレだ!オレだ!」と

強く主張しているように感じられます。

もちろん、その効果が巧みに使われている場合も多いという前提での話です。

 

反対に、ある程度余白をとっている場合、迫力は薄れると思います。

ただ、観る側への押しつけが減って、なんと言いますか

「ねぇ、ちょっとお茶でも飲まない?」と

誘われているような印象を受けることがあるのです。

観ている側が入り込める余地を残してくれていて

写真が「お話ししようよ」と対話を持ちかけてくる雰囲気です。

その感じがオシャンティ(スマート)と感じる理由で

同時に、やりすぎるとスカした(ナンパ)印象を与えるのだと思います。

もちろん、どちらも写真によるかと思いますが(笑)

 

感覚としては、ちょうど車のハンドルの「遊び」に似ていて

紙にギリギリまでプリントしたものは

遊びの少ないピーキーな挙動で、扱いづらいけど上手く使うと速い。

余白を出したプリントは

遊びの分だけこちらの動きに柔軟に対応し、安心して乗っていられる

といった感じです。

 

この余白というもの

普段はあまり気にしないものかもしれませんが

上記の様に同じものでも印象をがらりと変えてしまうので

結構重要なのでは?と私は思っています。

あまりにも理詰めでこられるとうんざりしてしまうことってありません?

(私はこれをやりがちなのですが…)

それはきっと、そこに自分が入り込む余地を見出せないほど

ぎちぎちに物事が詰まっているように感じられるからなのだと思います。

逆に、どこか一部分でも抜けているところがあると

そこに親しみを感じて、スッと入り込めそうな気がすることってありませんか?

この何かと何かを繋ぐ、ちょっと抜けている部分。

それが「余白」なんだと思います。

なので、この余白の量をどうとるかでも

作品と鑑賞者の距離感は、微妙に変わってくるかもしれません。

そして恐らくですが、この余白は作品そのものにも潜んでいると思われます。

ですが…その話をしだすと、更に長くなっちゃうので

また機会があった時に触れられれば嬉しいです。

 

もちろん、どのサイズでプリントするのかは個人の自由です。

小さくても、紙いっぱいでも、はたまた35mmをスクエアにプリントしたっていいのです。

結局、何を言いたいかというと

余白のつけ方でもだいぶ印象って変わるので

いろいろ試して遊んでみていただけると嬉しいなぁ

という単純なお知らせでした(笑)

 

でもやっぱり、ここまできてどうでもいい話なのですが

親知らずの余白

これだけは早く埋まって欲しいものです…。

 

 

ポエティック神谷

Posted in

明けましておめでとうございますm(_ _)m

本年も宜しくお願い申し上げます。

こ、今年こそしっかりブログを書いていきます!

…たぶん。

 

今回は久しぶりにポエティックらしく(?)戯れ言を書いてみようかと思います。

私事ですが、今年の3月でダークルームのスタッフになって丸5年になります。

こんな私でも、入ってきた時はピチピチギリギリの20代でした。

今や、立派なおじさん。

月日の流れとは恐ろしいものですね。

つきましては、そんな歳月の中でポエティック神谷的に気づいたことを

またつらつらと書いていければなぁ、と思っております。

いや、本当に恐ろしい…。

 

「写真で気持ちは伝わらない」

私がダークルームに入ってからしばらくした時に、そんな言葉を耳にする機会がありました。

当時、ピュアボーイ神谷だった私は「マジで!?」と純粋に思いましたし、疑っていました。

なぜなら、日は浅いにせよ写真を一生懸命作っているお客様の姿や

楽しそうにプリントをしている様子を間近で見ていたからです。

これが伝わらないはずはないのでは、と考えていました。

 

しかしまぁ、半年もすると、それを証明するかのような現象が目に留まるようになってきます。

作り手は熱っぽく説明しているのに、見てくれる方には

それが少しも伝わっていないような場面に出くわすことがあったのです。

それも1回や2回とかの頻度ではなく、結構な数。

「なんなんだ、これは」と思いました。

情熱がないわけでも、ましてや手を抜いているわけでもないのに

なぜそれが伝わっていかないんだ。

非常に悲しい気持ちになりました。

 

作り手に情熱がある→○

製作で手を抜いていない→○

自分の言葉で説明する→○

結果→×

 

わけわかんねぇぇぇぇ ヽ(`Д´)ノ

それを見ていると、まるで自分が分厚い氷に包まれているような気分になりました。

近くに人がいることは、はっきりとわかるのに

氷が熱を奪って、思いを届けることが叶わない。

何とも残酷で、正体がわからない不気味さ。

こんなの、どうしたらいいのさ。

 

しかし、そんなこととは関係なしに日常は過ぎていきます。

ある時、何を思ったか自分のベタ(インデックスシートのようなもの)を

齋藤に見てもらうようお願いしたことがありました。

「これがいいと思うのですが」と言うと、齋藤は「ふんふん」と言いながら

したり顔でその様子を見ていました。

「チッ!」と思いながら待っていると、しばらくして「それは普通すぎると思う」と

サラッとした答えが返ってきました。

続けて、「この中なら、こっちのカットの方が全然いい」と言われ示されたものは

当時の私にとっては当たり前の風景で気にもとめていない写真でした。

もっと言うと、当たり前の光景を何となく撮ったものでした。

どうにも納得いかないので「なんでですか?」と聞くと

「だって、それは神谷くんにしか撮れない写真でしょ?」と、これまたサラリと言い放たれました。

まぁ、ショックでした(笑)

そんなこと考えてなかったなぁ、と。

 

腑に落ちない私は、加藤さんやお客様にも同じことを聞いてみました。

ところが、私の意見に賛成してくれる方もいれば、齋藤と同じように全然別のものを選ぶ方もいるという

全くもってまちまちの結果は、特に何も示してはくれませんでした。

がっかりしながらも、まだ自分の中では何か引っかかるものがあったので

ならば、逆に自分が人のベタを見る時はどう思うんだろうと、考えるようになりました。

そうして初めて、ある決定的な事実に気がつくこととなります。

 

見る側は、目の前にあるものしか見られない。

 

撮影者は、この写真が「こういう時系列で」「どういった気持ちで」「こんな場所だった」という

バックグラウンドを知っているのですが、見ている方にはそんなこと微塵もわからないのです。

見る側は、目の前に提示されたものに対して主観的に各々の判断をすることしかできず

そこに写っていること以外を察することなど不可能に近い。

それをしてくれと求めるのは究極的には作者のエゴでしかない気がしました。

悪い意味で。

 

気づいてみれば、ごく単純なことで、要は希望的観測をしていたのです。

「こんなに頑張ってるんだから」「こんなに楽しんでるんだから」「こんなに苦しんでいるんだから」などの

「こんなに」が積もるたびに、気持ちが伝わらないなんてことが起こるはずはない

これはいい写真のはずなんだ、という思いが雪だるま式に大きくなっていく。

しかし、雪だるまの意に反して、写真はどんどん伝わらないものになっていってしまうのです。

それは「伝わっていて欲しい」という一方的な願いでしかないから。

 

思えば、私の選んだカットに賛同してくれた方は、「どこで撮ったのか」「どういうところだったのか」という

副次的な要素を聞いてくださることが多かったような気がします。

逆に、齋藤のように別のカットを選んだ方は、何ということもなく「これ」ということがほとんどでした。

ちょっとうがった見方ではありますが、言い換えてみれば

私が選んだカットは「副次的な何かを必要としてしまう」もので

別に選ばれたカットは「見る人が素直にいいと思える」ものだったのです。

一枚の写真としてみると、前者より後者の方が強度を持っているように私には感じられました。

 

どんなに一生懸命で、どんなに楽しんだり苦しんだりしても、最終形(プリント等)に

それらが自然発生的に表れることは、残念ながら極めてまれなことだと思います。

であるならば、見る側の視点を折り込んで、一個いっこの工程でニュートラルな判断ができる

自分であるよう努めることも一つの方法なのではないか、と考えるようになりました。

それは、見る側に媚びるということではなく、むしろ自分の好みを先鋭化させる作業となります。

 

撮影の時には、自分の好きなもの、興味があるもの、気になるものを撮る。

ベタができたら、撮影時の状況や思いは一旦忘れて、並べられたものの中で、いいと思えるものを選ぶ。

プリントでは、実際の風景は置いておいて、それが好きな具合かどうかで考えてみる。

つまらないと思えば素直に捨てるし、より「いいぜ!」と思えるなら躊躇なく手を加える。

あくまで目の前にあるものに対してだけ判断をするのです。

そうすると、結果的に「いい」の純度が高い作品のみが残っていくことになるので

自然と自分の好みが堆積していくようになります。

もしかすると、その純度の高さは磨かれたダイヤモンドのように

見る人を惹きつけることにも繋がるかもしれません。

後、個人的に大事なのが、そこまですれば最終的に自分が開き直れるっていうのもあります。

「これが好きなんだ。うるせぇ!」と(笑)

 

とても単純なことですが、これってすごく難しいことだと思います。

私自身、全然できている気がしません!(笑)

写真は機能的に幅の広いメディアですので、もちろんこれらの話が全てに当てはまるわけではないですし

作品の質や説明の仕方、見る人の好み、果ては感受性などのいろいろな要素が複雑に絡み合っていますので

明確な答えにはなっていないと思います。

ただ、写真が人に伝わらなくなる過程の一端ではあるかな、と感じています。

なので、こんなやり方もあっていいんじゃないかな、程度のお話しだと思っていただけると嬉しいです。

 

長々書いてきましたが、結局、分厚い氷は溶けませんでした。

でもまぁ、もしかしたら小豆大の穴くらいは空けられたかも…?

手をつなぐことはできずとも、大声で叫べば向うの人に気づいてもらえる程度の穴。

それはそれで、またもどかしい状況ですね(笑)

 

 

ポエティック神谷

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生贄のことば

2018-03-02

ブログも四発目となり、そろそろ大義も果たした(?)だろう

と勝手に思い込み、より好き勝手に書いていきたいな、と思っております。

凄く目立ちにくいのですが、本ブログは一応、記事ごとにカテゴリー分けをしています。

今回の記事のようにカテゴリーが「戯れ言」の場合は

個人的主観増し増しの内容になるかと思いますので

予めご了承の程、何卒、宜しくお願いいたしますm(_ _)m

あくまで個人的な考えで、他の何かを否定する意味はありませんので

本当に軽い気持ちで「戯れ言」として読んでいただけると嬉しいです。

 

さて、前回の最後に書き足りない部分がある!と宣言してしまったのですが

実は、それほど大した内容があるわけではなく…。

何を加えてお伝えしたかったかというと

「一枚の写真を印画紙一枚で仕上げるのは、ほぼ不可能」

というだけのことなのです。

 

印画紙は光の当たる量(露光時間)によって濃さが変わるようにできています。

プリントの濃さは基本的に、薬品に浸ける時間ではなく露光時間で調整をします。

少ないと薄く、多いと濃くなり、自分でプリントをする場合は

ちょうど「いい感じ」の時間を、自分で見極める必要がでてきます。

ただ、露光時間はネガの濃さや、焼きたい大きさ、機材の種類などによっても

変わってしまうので、今の条件でどれくらいが「いい感じ」なのかは

テストをしてみないとわからないわけです。

 

テストの方法はいくつかあるので、ここで詳しく言及はしませんが

画面の一部分で露光時間を変えたものを、実際に焼いてみて良さげな時間を見つけます。

それから、一枚まるごとを、その良さげな秒数で焼いてみます。

焼いてみてビシッ!と「いい感じ」になっていればいいのですが

「全体でみると、もうちょっと濃い方が…」

「もっとメリハリをつけたい…」

「この部分だけ濃くしたい…」など

いろいろと試行錯誤をすると、一枚の印画紙のみで完成形を作ることは

なかなか難しくなってきます。

なので多くの場合、皆さんが観る完成形としての写真の下には

多数の印画紙が生贄になっていたりするわけです。

めんどくさいですよね。

 

じゃあその「めんどくさい」は、単に不自由でつまらないものなのか。

ここから個人的主観増し増しでお送りします(笑)

 

個人的には「そんなことない」です。

先程、「生贄」という言葉を使いましたが

私の中で、完成形に至るまでの印画紙を例えるのに

これほどしっくりくる言葉はありませんでした。

それらの印画紙は見方によっては単に失敗なのですが

死に際にうるさいぐらい話しかけてきます。

「ここ、もっとこうじゃない?」

「あえて、こうしてみるとか?」

「撮影の時に気をつけてればね…」など

有益なものから、邪魔なもの、手遅れなものまで…

本当に多くのことを語り、さまざまな可能性を示してくれます。

作り手はそれらに、時に惑わされ、悩み、そして新たな知見を得ます。

そのうえ、彼らの言葉は決して暗室内に閉じこもったものではなく

撮影やフィルム現像の時に役立つものも多かったりするのです。

なんなら、自分の作風すら変えてしまうくらいに。

 

職業としてのプリンターでない限り

暗室作業は強制的に自分の写真と向き合う時間です。

「おれはこの路線でいくんだ!」と定まっている方はいいかもしれませんが

多くの方は、私のようにフニャフニャしていると思います(失礼)。

その際は、どうぞ生贄たちの言葉に耳を傾け、相談しながらプリントをしてみてください。

その中で、自分の好みを先鋭化させたり、視野を広げてくれる瞬間に、きっと出会うと思います。

それが偶然だろうが何だろうかは大した問題ではありません。

むしろ、その偶然をギュッと握りしめて離さないでください。

いろいろな気づきに出会い、自分でチョイスしてきた

そういった相談を繰り返していって最終的に残ったものが

そのうち作風になっていくのかも、と私は思います。

もしかしたら、それこそが暗室作業の醍醐味の一つなのかもしれませんね。

 

たかだか私ごときが言うには、おこがましい内容も多いかと思いますが

「戯れ言」はこんな感じでヌルーっと書かせていただけますと幸いです。

twitterを見て「ちゃんと読んでるよ!」と声をかけてくださった方々

ありがとうございます(笑)

とっても励みになります!

 

 

ポエティック神谷

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